38 青梅街道 【道】(和田3丁目55番30号)

 

ページ番号1008030  更新日 令和6年7月11日 印刷 

前の道は青梅街道です。青梅街道は慶長11年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木(かみなりき)村・北小曽木(きたおそき)村(現・青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守(いわみのかみ)長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間2万俵以上にも達したといわれます。
道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎等継(つぎ)送り(伝馬宿ごとに人馬を替えて送る)のための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の4カ村は中野宿の定助郷(じょうすけごう)(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、1カ月10日間の伝馬継立を行っていました。
江戸時代中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州裏街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保5年(1834年)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。
近代以降、本道の重要性はさらに高まり、大正10年(1921年)には淀橋~荻窪間に路面電車の西武軌道が開通しました。西武軌道は戦後都電となり、昭和38年(1963年)に廃止されました。
なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するといわれています。

 

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