23 大宮八幡宮 【神社】(大宮2丁目3番1号)

 

ページ番号1007891  更新日 令和6年6月28日 印刷 

当社は古く、江戸八所八幡に数えられた大社です。大宮(おおみや)の名は、広大な境内をもつ社(やしろ)であったことから、社名とも、また鎮座地の地名にもなったといわれ、秩父の大宮(秩父神社)、足立の大宮(大宮氷川神社)と共に武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」、あるいは「武蔵国八幡一之宮」と称され、令和5年(2023年)に鎮座960年を迎えました。
祭神は応神天皇(品陀和氣命(ほむだわけのみこと))、仲哀天皇(帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと))、神功皇后(息長帯比売命(おさながたらしひめのみこと))の3柱で、当宮に伝わる縁起には、

第71代後冷泉天皇の天喜年中(1053年~1057年)に奥州で乱が起き、この乱を鎮めよとの勅令(永承6年(1051年))を受けた鎮守府(ちんじゅふ)将軍源頼義と子の義家(八幡太郎)がこの大宮にさしかかると、白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥(ずいしょう)をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることができた(前九年の役)。この報賽(ほうさい)のため康平6年(1063年)、この地に源氏の氏神である八幡大神の分霊を京都の石清水八幡宮より戴いて祀ったのが、当宮の創建である。

と記されています。また、和歌山県の熊野那智大社には、貞治元年(1362年)12月に大宮の社僧が熊野那智大社に参詣した事を記した文書(米良文書(めらもんじょ))が伝わっており、その頃から当社に奉仕する社僧が存在したことがわかります。
江戸時代には代々朱印地30石を与えられて、大名や武士たちからも武勇の神として崇敬されてきました。
昭和44年(1969年)には、善福寺川に面する旧境内地から、弥生時代の集落の有力者の墓とみられる方形周溝墓3 基が発掘されました。方形周溝墓からは、弥生時代後期の赤彩された土器や、集落の有力者が生前に着用していた装飾品と思われる勾玉やガラス小玉が発見されました(昭和57年(1982年)、杉並区有形文化財に指定)。また川の対岸の松ノ木遺跡には同時期の住居群が分布することから、この方形周溝墓は松ノ木遺跡を構成していた有力者の墓であることがうかがわれます。
社宝には、木村常陸介・前田孫四郎制札(豊臣秀吉の制令)(杉並区指定有形文化財)・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額・木造随身坐像(杉並区指定文化財)・境内出土瓦(境内から出土した鎌倉時代の瓦)(杉並区登録有形文化財)などがあります。

 

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