東京高円寺阿波おどり
賑わいを求めて
100万人もの観衆が熱狂する一大ページェント「東京高円寺阿波おどり」。
国を超え、地域を超えて人々の交流と友好を生むこの伝統芸能は、高円寺のとある商店街のまちおこしにはじまり、試行錯誤を繰り返しながら、難を乗り越え共に前進せんとする人々の熱い想いと絆を紡いでいます。
始まりは『ばか踊り』
昭和32年(1957年)8月27日、高円寺南口商盛会(現高円寺パル商店街)の青年部の若手を中心に、地域の賑わいを求めて『高円寺ばか踊り』として始まった地域行事が、現在の東京高円寺阿波おどりの原型です。
「四国の徳島に阿波おどりというまちの中を練り歩く踊りがあるぞ」「練り踊るスタイルならば商店街でも実現できるんじゃないか」
賑わい行事の考案当初、櫓を組む場所も資金も無い中で出た妙案を提げて、阿波おどりの何たるかもわからぬままに、若者たちは日本舞踊の師匠のもとを訪ねます。
師匠に踊り方や着付けの基本を習った面々は、ばか踊りの当日、顔を白塗りにして眉墨と口紅を引き、手甲をつけて現在の高円寺パル商店街を飛ぶように全速力で踊り抜けたと言われています。
鳴り物はチンドン屋さんに依頼し佐渡おけさ風のリズムで踊りました。
白塗りに眉墨を伴ったいで立ちと、振り付けに恥ずかしさのあまり脚が震え、暑さも手伝って汗が止まらなかったと言います。
運命の綱渡り
運命の1票
地域の賑わい創出、そして商店街の振興策としての目的がありながら、当の商人は、ばか踊りの担い手ゆえ、当日の店は主が不在に。更にはお客様は店に背を向け踊り見物に夢中……。
当初の目論見からかけ離れる状況を前に、商店街の役員会で高円寺ばか踊りの存続を問う無記名投票が行われます。
投票の結果、議長が投じた最後の1票で存続が決定。廃止の危機を乗り越え第3回大会が開催されました。
今日の東京高円寺阿波おどりの命運を左右する大きな1票となりました。
結束のとき
存続決定に安堵したのも束の間、続く第4回の開催にあたって警察の道路使用許可がなかなか下りず、運営メンバー総出で試行錯誤しながら警察への働きかけを続けます。
結果、開催前日にようやく許可を得られ、中止の危機を免れます。
その後も時代の折々で大小の存続危機に接することとなりますが、共に困難を乗り越えていく中で関係者の結束が固まり、現在の東京高円寺阿波おどりの運営の土台となる連携体制が築かれていきました。
本物との出会い
第5回が開催された昭和36年(1961年)、遂に阿波おどりの本場・徳島との出会いに至ります。
東京・木場で活動をしていた徳島県人会の「木場連」との出会いから本格的な踊りの指導が始まり、昭和38年(1963年)に正式に高円寺阿波おどりと名乗ることになりました。
阿波おどりの魅力に取りつかれた高円寺の有志たちは、幾度となく徳島へ武者修行に出向き、そのレベルの高さに触れながら活気のある行事作りを進めます。
その後、独立連(踊りグループ)が次々と誕生し、地域振興策の枠を超えて、踊りの技術や個性を磨く芸能へと進化していきます。
共に前へ
難を乗り越え 共に前へ
バブル崩壊後、個人商店主体からテナント主体へと商店街の構成が変化していきます。
一方、東京高円寺阿波おどり当日の観客や出演連の規模は年々増加の一途を辿り、連や観客の数に対応する運営体制を商店街主体で維持することが困難になってきます。
地域の諸環境を守りながら行事を安全に開催することの重要性が増す一方、運営を支えるスタッフの数や歳入の不足は深刻で、警備やごみ処理等の課題も山積する状況が続きました。
危機の打開と再生を目指し、平成17年(2005年)に「商店街と地元の町内会・自治会、そして踊り手と観客が一体となって高円寺阿波おどりを支えていこう」との理念のもと、それまで商店街中心の任意団体であった東京高円寺阿波おどり振興協会のNPO法人化を図りました。
以来、東京高円寺阿波おどりは、組織の属性を超えた関係者の結束と、阿波おどりを通じて結ばれた地域と地域・人と人との絆によってさまざまな課題を乗り越え、東京の夏の一大イベントとしてその歴史を紡ぎ続けています。
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