杉並区の歴史
杉並区の歴史について解説します。
原始から古代
区内には北部に井草川、妙正寺川、中部に桃園川、善福寺川、南部に神田川がそれぞれ東流し、これらの河川の流域には160ヶ所を超す遺跡が点在しています。
旧石器時代の代表的な遺跡には、遅ノ井遺跡、川南遺跡、白幡遺跡、高井戸東遺跡があります。高井戸東遺跡の関東ローム層から出土した局部磨製石斧は、出土した層の年代から約3万2000年前頃のものと推定しています。
縄文時代になると区内の遺跡は急激に増加し、河川周辺の台地上やその縁辺、低地などから遺跡が発見されています。井草遺跡は、関東地方の早期の標識土器である「井草式土器」が出土した遺跡として知られています。光明院南遺跡からは、柄鏡形住居と呼ばれる住居が検出され、その中から石棒が3本発見されました。下高井戸塚山遺跡からは、中央に広場を設け、その周辺を住居で囲む中期の環状集落が見つかっています。神田川沿いの低地に位置する向方南遺跡からは、草創期から後期に至る大量の土器片や木製品、籃胎漆器のような貴重な漆塗り製品が出土し、縄文人が豊かな生活を営んでいたことがうかがえます。
弥生時代の遺跡は善福寺川や神田川の中流域から下流域にかけて分布しており、松ノ木遺跡や本陣山遺跡といった集落遺跡が発見されています。また、方南町峰遺跡群、鎌倉橋上遺跡からは環濠の可能性がある溝状遺構も検出しました。これらの遺跡は、集落の周囲に溝をめぐらせた、弥生時代に特徴的な環濠集落と推測しています。その他に、大宮遺跡、堂の下遺跡、方南町峰遺跡群からは方形周溝墓と呼ばれる首長のお墓が発見されており、ガラス小玉や、周囲の溝からは墳丘上に置かれたと考えられる壺が出土しています。
古墳時代の代表的な集落遺跡には、熊野神社南遺跡、済美台遺跡、和田中学校遺跡、釜寺東遺跡などがあります。これらの遺跡からは、日常的に使用していた土師器が出土した他、熊野神社南遺跡からは鉄鏃、和田中学校遺跡からは耳環(耳飾り)が発見されました。済美台遺跡からは祭祀に使用したと考えられる臼玉や石製模造品が見つかっています。また、高千穂大学大宮遺跡では円墳の周溝が調査され、周溝の底から出土した土師器の特徴から、古墳の年代を5世紀末に位置付けています。
古代になると区内の遺跡は減少傾向となり、丸山遺跡、向山遺跡、本村原遺跡C地点で住居跡が発見されています。向山遺跡からは、判読不明ながら墨書の痕跡がある須恵器(墨書土器)が出土しています。
中世から近世
和歌山県那智神社所蔵「那智米良(めら)文書」は熊野那智神社の御師(おし)の関東行脚の記録で、応永27年(1420年)のもののなかに「中野殿、あさかやとの」と記され、阿佐谷の地名を名乗る武将の存在したことを示しています。一方、上杉文書を見ると宝徳3年(1451年)の室町幕府下知状の写しがあります。これは鎌倉の円覚寺宝亀庵と受勝軒の寺領である越後国中治田保を、道悦の知行している堀内・下萩窪・泉村(和泉)と交換することを幕府が認証したもので、道悦とは、関東管領上杉憲実の弟重方の法号です。この文書によって、当時の堀ノ内・泉村などに、ある程度の田畑・農家や農民が存在していたと分かります。
徳川幕府が江戸に開かれるとともに、区内の村々にそれぞれ支配機構が確立され、また新田開発による開村などもあって、中期初頭には20の村が成立しました。これら20の村は、幕府直轄領・今川氏領・内田氏領・岡部氏領(元禄以後なし)・山王社領などに分かれていました。これと同時に、杉並は江戸近郊の農村地帯として、江戸市中への野菜の供給などを担っていました。杉並は江戸時代300年間を通じ、純然たる農村地帯で、住民もほとんどが農業に従事していました。彼等は、収穫物の中から一定の年貢を領主や代官所に納めるほか、臨時の課役や道路・橋梁の普請の助役および助郷(すけごう)などを勤めなければなりませんでした。その他、将軍に対する諸納物の調達などにも追われていました。
明治維新から現代
明治維新によって徳川幕府が倒れるとともに、大部分が旧幕府直轄領であった本区内は、武蔵知県事の支配下に入りましたが、次いで品川県に編入されました。
明治4年(1871年)、戸籍法(明治5年(1872年)実施、壬申戸籍といわれる)の施行に伴い、本区は、東京府第8大区5小区と6小区に属していました。同時に江戸時代から続いた名主制度が廃止されて、戸長・副戸長の制度となりました。
明治5年の学制実施によって明治8年(1875年)4月に小学校が区内に設立されました。
明治11年(1878年)、郡区町村編成法によって東京府は15区(市街地)と6郡(郷村地)に分けられ、本区は6郡中の東多摩郡に属しました(東多摩郡は、明治29年(1896年)に南豊島郡と合併し豊多摩郡と変更)。ついで、区町村会法が公布され、区内20ヵ村は6つの連合村を組織し、その各々に戸長が置かれ戸長役場(村役場の前身)が設けられ、連合村会も持たれました。
さらに、明治21年(1888年)には市制および町村制が発布されて、区内20ヵ村も4ヵ村あるいは6ヵ村が合併し、翌22年(1889年)には杉並・和田堀内・井荻・高井戸の新4ヵ村となりました。
画期的な変化をもたらしたのは、大正12年(1923年)9月の関東大震災後の東京市人口の郊外流出でした。区内では杉並村の発展が最も早く、同13年(1924年)6月には町制をしきましたが、ついで同15年(1926年)7月には和田堀内(後に和田堀と改めた)・井荻・高井戸・の3村が相ついで町になりました。
昭和7年(1932年)10月1日、新市域に新しく20の区が置かれたとき、区内には杉並・和田堀・井荻・高井戸の4ヵ町がありました。その後、昭和18年(1943年)7月、新たに都制施行とともに東京府東京市は東京都となり、本区はこの時から東京都杉並区になりました。戦後、地方自治法の公布により、都の区は市に特別区とされ、市に近い性格を与えられました。その後、昭和40年(1965年)の大幅な事務事業移管を経て、昭和50年(1975年)4月からは、地方自治法改正に基づき区長公選制が施行されました。
さらに平成12年(2000年)4月から、特別区制度改革と地方分権改革が行なわれ、清掃事業など区民に身近な仕事を区が行うことになったのをはじめ、財政面でも自主性は強化されることになり、杉並区は「基礎的な地方公共団体」として新しい時代を迎えました。
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